2章
1-4節は、聖霊が降り、教会が誕生する正にその瞬間を描いている。「五旬節」とは「50日目の祭日」の意で、大麦の初穂の束をささげる日から数えて50日目に行われた(レビ23:15以下)ことから生まれたギリシャ語訳のペンテーコンタ・へーメラスの訳語である。ペンテコステとも言う。旧約聖書ではペンテコステの日に律法が与えられたが、新約では聖霊が与えられた(デイヴィッド・グーズィック David Guzik)。「みなが一つの所に集まっていた」(1節)のは、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(1:4)というイエスのことばを守っていたからである。そして、イエスの約束どおり(1:5)聖霊が降った。「聖霊のバプテスマ」(1:5)とは、全身が水に浸かる「ヨハネのバプテスマ」(1:5)との対比であり、聖霊の中にその人全体が浸かる、すなわち、聖霊が降った人に聖霊が満たされることを意味する。聖霊が降ったときに大きな音がしたので(2、6節)大ぜいの人が集まって来た。そのときに弟子たちは、聖霊に導かれるままに、弟子たち自身は知らないが集まって来た人たちそれぞれが知っているそれぞれの出身地のことばで神の大きなみわざを語っていた。これは神の働きだが、この働きに対して信じる者とあざける者との二つに分かれるという反応が起きた。ペテロは弟子たちとともに立ち上がり、今彼らに起きた神のみわざについて集まって来た人たちに説明し、初めて、聖霊に満たされて神の福音を大胆に語った。その結果、その日のうちに3千人の人がバプテスマを受けて弟子に加えられた。新しく加えられた人たちは「弟子たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈り」(42節)、「いっさいの物を共有」(44節)、「心を一つにして宮に集まり」(46節)、「神を賛美」「すべての人に好意を持たれ」「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(47節)。バベルの事件(創世記11:7-8)では、神が人のところに降って来て一つの言語を多くの言語に変えて人々を全地に散らしたが、ペンテコステでは、同じ神が聖霊として人のところに降り、バベルの事件以来多くに分かれた言語を用いて、今度は逆に人々を一つにするという、バベルの事件とは全く逆の結果をもたらしている(チャールズ・プライス Charles Price)。
0 件のコメント:
コメントを投稿