2011年5月25日水曜日

使徒の働き 3章

3章

1-8節は、足のなえた男が「ナザレのイエス・キリストの名」によって癒された奇跡について記している。「足とくるぶしが強くなり、おどりあがってまっすぐに立ち、歩き出した」は医学用語で記述されており、足の関節が完全に外れていた状態が完全に正常な状態に復帰したことを示す。この出来事は「イエスの名」には大きな力と権威があることを示している。いやされた男は宮の美しの門で物乞いをしていた人であり、生まれつき足のきかない人であることが宮に来る人たちの間に知れ渡っていたので、この男が自分の身に神のみわざが起こったことを賛美し、歩いたりはねたりしているのを人々が見たときに神の奇跡が起きたことを知って驚いた。しかし、人々の目が「奇跡を行う器」に過ぎないペテロとヨハネに注がれ始めたので、ペテロは、自分たちではなく、奇跡のみわざを行った神に目を向けるように人々を促した。この奇跡を行ったのは宮に集まっている人々の信じている、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」、すなわち、彼らの「父祖たちの神」に他ならず、そしてその神が「そのしもべイエス」に栄光を与えるためにイエスの名によってこの奇跡のみわざを行ったと語った(13-16節)。ペテロはすぐさまイエスの受難のいきさつを語ることによって人々に悔い改めを迫り、イエスの名によって神に立ち返ることを迫った。イエスの受難の出来事は全能なる神のご計画が行われたことによるものだが、それでも、イエスを十字架につけて殺した責任から神の民は逃れることが出来ない。全能の神のみわざによって行われることであっても、人が為した行為には必ず責任が伴うのである。

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